毒親の中には、子供に対して全く無関心な親もいれば、厳しすぎるしつけで、子供を縛り付けながら育てる親もいます。

無関心すぎることももちろん子どもとしては辛いのですが、厳しくされ過ぎることも、非常に辛く悲しいものです。

 

私は幼少期、両親から厳しいしつけを受け、しつけを通り越して虐待と言っていいくらいの状況になることが、とても頻繁にありました。

毒親としつけについて、考えて行きましょう。

しつけとは何か

そもそも、しつけとはなんなのでしょうか。

しつけとは、礼儀や作法を教えたり、練習させたりすることです。

親として、子供のために必要なことを教えてあげることが含まれます。

社会の中の守るべきルールを、生活の中で学んでいくためのサポートをしていくことです。

子供が自分で自分をコントロールし、正しい選択ができるようにお手伝いします。

 

しかし、しつけと称して子供を虐待したり、行き過ぎた教え方が問題になっています。

自分が子どもの頃、親からしつけをされたのか、虐待をされたのか、みなさんは分かりますか?

 

私は虐待を受けたと頭では理解しているものの、、ときどき、自分の幼少期は本当はどちらだったのか、分からないと感じることがあります。

いや、分からないというより、分かりたくない、分かってしまうのが怖い、という感情が正しいかもしれません。

しつけか虐待か

事実、私の親は虐待をしていたと思います。

しかし、これを虐待だと認めてしまうことは、私の生きてきた人生が、我慢してきた痛みや悲しみが、全て無駄だったということになってしまいます。

だからこそ認めたくないと感じ、また、分かりたくないと思うのです。

 

それでも、他の家庭の話を聞いたり見たりすると、自分がいかに変わった育てられ方をしたのか、嫌でも分かるようになってきます。

学生の頃から、本心では気づいていましたが、相談できる相手も無く、相談しても何の解決にもならないと感じていましたし、最初からあきらめていました。

逆に、自分が経験したのはあくまでもしつけだと自分に言い聞かせることで、その体験は無駄ではなかった、我慢した分、報われたと思い込むことができました。

そうでもしなければ、自分の心が壊れてしまうくらいの状態でした。

毒親のしつけ

毒親にもいろいろなタイプがありますので、一概に毒親が皆同じしつけをするわけではありません。

私の場合、どのようなしつけをされたのかをお話しさせてください。

 

まず、母は私が1歳の頃から宗教にのめり込み、子供を厳しくしつけることや、文字通りムチを打って子供を懲らしめることなどを学びました。

この頃から、もうすでに母は異常なしつけをしていたと言えます。

 

子供が何かすればすぐにムチを打ち、体罰を正当化し、何度も何度も叩きました。

子供が親の言いなりになることを望み、少しでも気に食わないことや、親の意見と相反する意見を述べようものなら、はいムチです!と宣言され、叩かれました。

 

私を叩くとき、母はものすごい表情をしていました。

狂気に満ちた目をぎらぎらさせながら、本当に鬼のような顔をしていました。

 

母が笑ったことも、もちろん記憶にあったはずですが、ムチを持った時の顔の印象が強すぎて、母との楽しい記憶や、一緒に遊んで笑った記憶と言うものは、どんどん薄れていってしまいました。

母がムチを振り回したり、私を叩いている様子は簡単に思い出せるのに、楽しかった記憶は、どんどん思い出せなくなってきています。

 

何で叱られたのか、何がいけなかったのか、というような、大切な部分が全く記憶に残らないほど、とにかくムチで叩かれた、という記憶だけが残り、自分で正しい判断ができるようになったというわけではなく、ただ単に叩かれたくないからやらない、どうすれば親が機嫌を損ねないか、という観点で物事の判断をするようになりました。

 

ムチ以外にも、虐待の体験を語るのにネタは尽きませんが、それはまた別の時にお話しするとして、小学校時代はとにかく親に叩かれる毎日でした。

中学、高校と、体が大人になっても、ムチによる虐待は終わりませんでした。

言葉が通じる年齢になっても、落ち着いて話し合おうとはせず、ただただ体罰で子供を思い通りにしようとしました。

叩かれて痛いので、本心では全く納得していなくても、最後は痛みに負けて、心にもない謝罪や、嘘でも反省を口にします。

 

私は、嘘をつくのはとても気持ちが悪く、叩かれても叩かれても、納得いかない時には抵抗を続ける子供でした。

何度も大人の力で手加減なしに叩かれるので、体から血が出たり、みみず腫れのようになることは日常茶飯事で、そのうち、傷や腫れを隠すために、母は私のお尻や背中など、普段は洋服に隠れる部分を叩くようになりました。

しつけに関するお願いをしたことも

あまりに理不尽な体罰が多く、痛みが相当なもので、身の危険を感じていた私は、一度母に、あるお願いをしてみたことがあります。

ムチではなく、手でたたいてほしいとお願いしたのです。

 

子供が、手で叩いてくれませんか、と言ってきたら、みなさんが親の立場ならどう思うでしょうか。

異変を感じるのが普通でしょう。

いや、子供からそんなことを言われる場面なんて、そうそう無いでしょう。

 

しかし母は、こう答えたのです。

手が痛くなるから嫌だ。と。

 

もしも、子供をしつけるため、しかたなく叩いていたと仮定するなら、体罰も我慢できました。

もちろん、体罰なんてダメなんですけどね。

でも、母は、自分の手が痛くなるから道具を使って叩くと、はっきりと言葉にしました。

これは、子供のことを思った愛を動機とするしつけではなく、自分の感情や、怒りを爆発させるだけの、自己中心的な暴力行為でしかないことがはっきりした瞬間でした。

それ以上、何を語っても無意味だと悟った私は、黙ってムチを受け入れ、とにかく時間が過ぎるのを待っていました。

虐待はしつけではない

いくらムチや体罰で子供を思い通りにコントロールしようとしても、子供にとっては何の意味もメリットもありません。

 

むしろ子供は、いつか必ずここから逃げよう、解放されたら好きなことをしよう、と考え、親から離れようとするでしょう。

虐待や体罰はしつけでもなんでもなく、暴力を教えているだけです。

お友達や、周りの人に、ムチで叩いたりするお手本を見せる親など、どこが正しい子育てなのでしょうか。

 

私は、未だにこの体罰によるしつけはトラウマになっています。

30歳にもなって、幼少期の体罰の夢を見て、泣きながら助けてと叫びながら、汗だくになって目が覚めるのです。

自分の子供の育て方さえ分からない

自分の幼少期に叩かれて、体罰を受けて育ったことしか記憶にないのですから、正直、優しく教える、言葉で話す、落ち着いて注意する、冷静に語り合う、ということは、全く想像がつきません。

体験していないのですから、分かるはずがありません。

想像でやってみることしか、できないのです。

 

自分が親になり、子供を育てる立場になって、確かに子育ては難しいと感じました。

しかし、だからと言って自分がされたことは正解だったとも思えません。

我が子には体罰をしたり、虐待なんてしたくないのです。

 

それでも、優しく教えたいと、できるだけ冷静に話し合って、穏やかに注意して、それで素直に聞いてほしいと思っているのに、そんな親の気持ちを知るはずもない子供は、何度注意しても同じことを繰り返し、やめようとする気配もありません。

そんな子供を見ていると、悲しくなります。

私がもし同じことをしていたら、何発叩かれたかなと、考えてしまいます。

どうすればいいのか分からないジレンマと、自分が受けた理不尽な過去の体験を思い出し、感情が乱れ、涙することもしょっちゅうです。

まとめ

自分がどんな育てられ方をしても、やってはいけないことはやってはいけないし、やるべきことはやらなければなりません。

 

つくづく、世の中は不公平だなと感じます。

 

子どもの頃のいじめっこが、大人になってものうのうと楽しく暮らすのと同じように、虐待した親は心を痛めることなく、自分の子育ては完璧だったと豪語するのです。

いじめの被害者が社会で生きづらさを感じることもあるでしょう。

同じように、虐待された子供が苦しみ続け、過去のトラウマと戦いつづけているのです。

 

過去は変えることはできませんが、未来はいくらでも変えることができます。

自分の生き方次第で、未来はどっち向きにでも、進む方向を修正することができます。

 

過去にとらわれ、辛い辛いと泣いているよりも、これからを楽しいと思える人生に変えたいと思いませんか?

 

叩かれ、罵倒され、ののしられ、ひどい仕打ちを受けてきました。

親からも存在を否定され、自分を好きになることができませんでした。

過去の経験から、ずっと前向きにはなれませんでしたが、徐々に考え方を変えて、視線をふと上に向けられるようになってきました。

今でも過去を思い出して泣く日もありますが、未来を変えるため、自分の子供や家族との関係性を、良いものにするために、日々反省の繰り返しです。

親を変えることはできませんが、自分は同じ親にならない努力はできます。

自分が虐待しない、体罰ではない教え方をして、子供を立派に育てることで、自分を肯定できるようになりたいと思っています。