私は、ごくごく一般の家庭に生まれ、父と母と姉との4人家族として、姉と歳が離れたこともあり、とてもかわいがられてきました。
アルバムを開くと、1歳の誕生日に母の手作りのケーキと、テーブルいっぱいに並べられたごちそうで、初めての誕生日を家族みんなにお祝いしてもらった様子が写真に残っています。
とても幸せそうに笑っている自分のこの時の写真を見ると、私はいつも涙がこらえられなくなります。
なぜでしょうか?
このページを読んでくださっているあなたは、周りにイベントをお祝いしない方がいて、一体なぜなのかと疑問に感じた方かもしれません。
もしくは、幼少期に私と同じ体験をしてきた方かもしれません。
幸せいっぱいだったはずの誕生日の思い出が、なぜ涙の理由になるのでしょうか。
最初で最後の誕生日のお祝い
この日を最後に、我が家では誕生日を祝うことをしなくなりました。
母が新興宗教の勧誘に来た方の話に感銘を受け、その基準となる聖書の教えを学ぶようになります。
聖書の中に出てくる誕生日を祝うエピソードは2か所に記述がありますが、そのどちらでも、誕生日のお祝いの中で亡くなる方が出てきます。
教えの中では、誕生日を祝うことは、異教に由来していることなどから、誕生日を祝うことは禁じられています。
母は、とても模範的な研究生だったようで、学んだことをすぐに自分の家族にも当てはめて、私が2歳以降は、誕生日のお祝いをしなくなります。
私としては、1歳の誕生日はお祝いしてもらった事実が写真として記録には残っているものの、物心つく前のことですから、記憶には残っていません。
つまり、私は自分が家族から誕生を祝ってもらった記憶がありません。
お友達にも、基本的には誕生日のプレゼントをもらったことがありません。
自分の家でお祝いをしないのですから、お友達を招待することももちろんできないからです。
忘れられない誕生日プレゼント
誕生日に関わるエピソードで、ある忘れられない記憶があります。
同級生で、とても優しい小柄な女の子がいました。
その子は自宅でウサギを飼っていて、見せてもらいにおうちに遊びに行ったこともあるのですが、本当にみんなに平等に優しくて、私のような、変わった家の変わった子とも、遊んでくれることに、私自身少しびっくりするくらいでした。
この優しい女の子を、仮にEちゃんとしましょう。
Eちゃんはなんと、自分の誕生日のお祝いに、私を招待してくれました。
私は、宗教上の理由で誕生日をお祝いできないから、誘ってもらったことはとてもうれしいし、本当はすごく行きたいけど、行けないということを話しました。
そして逆に、自分の誕生日に招待することも、できないことを話しました。
そもそも、家族からも誕生日を祝ってもらっていないのですから、招待などできるはずが無いのです。
当時私は小学生でしたが、プレゼントを買うにも、私には自由に使えるおこづかいも無かったので、用意することもできません。
自宅から何かを持ち出したり、手作りするとしても、母親の目を盗んですることはできませんでした。
常に私の行動を見張っていたからです。
親に言っても、もちろんお金をくれることなどありえません。
普段、出かけたお店で見かけるちょっとしたかわいい鉛筆や、キラキラしたシールなど、そんな他愛無い雑貨すら買ってもらえないのです。
このこともEちゃんに正直に話しました。
ましてや、お友達にあげる誕生日プレゼントを買うからお金が欲しいなどと言おうものなら、何をされるか分かりません。
いや、分からないことは無いですね。
激怒して、おしりを叩かれることが容易に想像できました。
Eちゃんは、分かったよ、と一言言うと、それ以上追及してきませんでした。
Eちゃんに、変な子だと思われただろうなと思いました。
きっと、優しいEちゃんからも見放されるだろうと思いました。
しかし、Eちゃんは、その後も普通に接してくれました。
しかも、それだけではなく、なんと私の誕生日に、B5サイズのお絵かき帳を買ってきて、プレゼントしてくれたのです。
それは、お友達からもらった、初めての誕生日プレゼントでした。
私は、驚きとうれしさで、涙を流したことを覚えています。
Eちゃんは、泣くほどうれしかったの?と言って、背中をさすってくれました。
Eちゃんのくれたお絵かき帳は、母に知られては取り上げられてしまうことが分かっていたので、自宅に持って帰ることはせず、学校にお絵かき帳を置きっぱなしにして、Eちゃんの好きなアニメのキャラクターやイラストなどを描いては、Eちゃんにあげたりしていました。
Eちゃんは、もともと自分がくれたお絵かき帳にかいただけなのに、とてもその絵を喜んでくれ、クリアファイルに入れて私のかいた絵をとっておいてくれたりしました。
こんな優しいEちゃんに、何もお返しができないまま、高校は別の学校へ進学し、会わなくなってしまいました。
元気にしているかなと、今でも思い出します。
誕生日以外のプレゼント
新興宗教の教材の中に、誕生日のお祝いをしないことで、信者の子供たちは損をしていると感じているだろうかという問いかけがあります。
その続きには、NOと書かれています。
思いがけない時に贈り物をもらうほうが楽しい、とか、両親はほかのいろいろな時にプレゼントをくれる、とか、たった10分でケーキと歌だけでパーティーとは言えず、うちではもっとすごいパーティーをしてくれる、といった趣旨の記述があります。
これらは一体だれが回答したのか定かではありませんが、少なくとも私はそうは感じませんでした。
誕生日のお祝いが無いことはもちろん、それ以外のサプライズプレゼントなど、もらった記憶は、ただの一度もありません。
必要最低限のものは用意してもらいましたし、18歳まで育ててもらったことは確かですが、間違いなく損をしてきたと思うし、普通の家庭に生まれたら、楽しいイベントや、プレゼントをもらうチャンスがたくさんあるのだろうなと、周りの子供たちをいつもうらやましく思っていました。
テストなどで良い成績を残しても、作文や絵画で入賞しても、何かをもらったことはありません。
テストに関しては、例えば90点を取ったときに、100点じゃないんだ、と言われたりします。
父親に至っては、勉強だけしていればいいと思ってんのか、調子に乗ってんのか!と怒鳴ったこともあります。
勉強しかしていない、というわけではありませんでしたし、一応学生なので、それが本業だと思いましたが、いちいち反論していては文字通り痛い目に遭うので、私は黙って怒鳴り声を聞いていることしかできませんでした。
クリスマスのお祝い
例えば、クリスマスなども祝うことが禁止されていました。
聖書を基準とした教えで、キリスト教に分類されるのに、クリスマスを祝わないなんて、と驚かれることもありますが、お祝いしませんでした。
その理由は、聖書ではキリストの産まれた日よりも、亡くなった日を重要視しているから、ということでした。
この教えを守るために、やはりクリスマスにもプレゼントはもらえませんでしたし、この日にケーキやチキンを食べることもありませんでした。
26日、クリスマスが過ぎてから、値下げしたケーキを食べさせてもらったことならありました。
それも、片手で数えられるくらいの回数でしたが。
例え売れ残ったケーキでも、我が家ではたまにしかお目にかかれないケーキでしたので、子供の頃の私はとてもうれしかったのを今でも覚えています。
お祝い禁止なのか?
一般的に子どもたちが親からプレゼントがもらえるようなイベントは全て、我が家では開催されたことはありませんでしたから、基本的に親からプレゼントをもらった記憶がありません。
宗教の教材の中では、それ以外のプレゼントや、別のパーティーで、子供たちにも楽しいひと時を味あわせてあげましょうというような記述が確かにありましたが、その部分については母は実践してくれませんでした。
しかし、この記述から、全てのお祝いを禁止しているわけではないことが分かります。
お祝いやパーティーも、その内容によっては開催することが可能です。
異教の教えや、由来などを考慮して、祝ってもいいものと、祝ってはいけないものとを判断します。
例えば、宗教の教えの中で大切にされているイベントや、宗教上での昇格のようなものがあった時などは、祝ってもらった記憶があります。
信者だけが集まって手作りの料理を持ち寄って、祈りで始まり、みんなで穏やかに和やかに会話しながら食事をする、というスタイルがほとんどでした。
言うまでもありませんが、会話の内容はほとんどが宗教に関する話題です。
先述の本当のパーティーというのが、これを指しているのだとするならば、子供たちが本当に楽しいと思っているのかどうか、甚だ疑問ではあります。
全て禁止ではないが、実質楽しいお祝いはほぼ全て禁止
これまで挙げたお祝い以外でも、節分の豆まきやら、桃の節句、ひな祭り、こどもの日、バレンタイン、ホワイトデー、イースターだとか、七夕、ハロウィン、大みそか、お正月…子供のうちに楽しむようなイベントはほとんど全て、禁止されていました。
家庭でお祝いできないことは仕方ないにしても、(いや、仕方なくはないのだが、既にその感覚がマヒしてしまっているところがある)学校でもそれらに関わる行事や、クラスでお楽しみ会的な催し物をするとなると、参加することができませんでした。
学校で行事に参加できないというのは、子供にとって非常に残酷です。
これが原因で仲間外れにされたり、いじめられたりするからです。
私もその例に漏れず、やはりクラスでいつも浮いていましたし、仲間外れで、もちろんいじめられ、イベントに参加しない変な人と思われていたはずです。
だからこそ、小中学生の頃の同級生とは連絡も取っていませんし、会うこともきっとこれからも無いと思います。
でも、もしも叶うならば、私が私の意志で変な人であろうとしていたわけではなく、そうする以外、方法が無かったのだということは、分かってもらえたらと思います。
まぁ、これを読む人の中に私の元同級生たちがいればの話ですが。
きっとみんなは私のことは記憶から消え去って、それぞれの充実した人生を送っているに違いありません。
自分の意志でやらないのだと証言しなければならない
私もそうでしたが、学校で参加できないイベントがある場合は、事前に先生にその宗教上の理由などを説明しなければなりません。
これを、業界用語では証言する、と言います。
イベントに参加できないということ、なぜ参加できないのか、聖書にはその根拠となるどういった記述があるのか、参加できないという決定は自分自身の意志であり、イベント中は代替えとなる他の活動をさせてもらう許可をもらう、といったことが、証言に含まれます。
この、自分の意志で、というのがやっかいです。
子供たちは、信仰を貫くことを自分の意志で決定していると、はっきりと話せるように、練習『させられる』のです。
先生からも、一般的なイベントを意味不明な信仰を理由に拒絶するめんどうな生徒として、嫌われたり疎まれたりします。
先生に、行事に参加できない理由を証言した後、あからさまにハァ~とため息をつかれ、じゃあその時間は図書室にでもいて時間をつぶしててください、と言われるたび、とても辛かったことを思い出します。
もし、これを読んでいる教職員の方がいるならば、どうか、目の前の生徒の表面だけを見て、面倒だとか、嫌いだとか、思わないでいただきたいと思います。
子供と言うのは、家庭環境によっては、いわゆる子供らしい自由な意思を持つことが難しい場合もあるのです。
宗教と子供
母はもともと、とても徹底した倹約家で、節約の鬼のようでしたので、世の中のイベントをすべて祝わないということは、お金がかからなくてとても経済的でもあり、神の教えを守ることもできて一石二鳥だと考えている節がありました。
だからこそ、サプライズ的なプレゼントなど、いくら考えても思い出せませんし、お祝いやパーティーというものも、楽しかったものがあったのかどうかも、思い出せません。
私の記憶の中ではほとんど無かったとは思いますが、無いと言い切ってしまうと、自分のこれまでの人生を否定するようで辛いので、思い出せない、という表現に留めたいと思います。
ここまで考えてきたとおり、宗教の教えによっては、子供たちは楽しみを奪われたり、他の子供たちがほぼ全員体験するはずの楽しい行事に参加できなかったりと、とても大きな影響を及ぼすことがお分かりいただけるのではないでしょうか。
宗教は人間の救いにもなるかもしれませんが、時に残酷です。
親が信じた宗教を、子供が同じように信じるかどうかは、子供が意思決定ができるようになった時に、自由に決めさせることが一番理想的です。
宗教に限らずとも、親の信じていること、親の都合、親の考え方、それらを前面に押し出して、子供にも有無を言わさず同じように適用することは、必ずしもお互いの幸せにはならないかもしれないということです。
まとめ
誕生日もクリスマスもお祝いしない宗教について考えてきました。
宗教と子供との関係、影響も大きく、子供が悲しい経験をすることもあります。
周りで、この記事で述べた内容に酷似する状況があるとしたら、それは本人の本当の意志ではないのかもしれません。
仲間外れにしたり、気持ち悪いと思わないでいただきたいのです。
大人が自分の信じるものを決めるのは、自己責任です。
しかし、子供にその信仰を強要するのではなく、最終的には子ども自身が選択し、決定できるように、子供に自由を与えてほしいと思います。
しかし実際のところは、何かを信じきっている大人が、子供を同じ道を歩ませたいと考えるのは自然なことで、子供に自由に決めさせるというのは、難しいのかもしれません。
今、自分で信じるものを決めることができない状況にある子供たちは、辛い経験をしているかもしれません。
集団の中では、どうしても少数派は目立ってしまったり、周りと違うことをすると疎外されたりしてしまいます。
しかし、大人になれば、自分で物事を判断して、自分で決めることができます。
働いて自分で生活し、自分で選択することができるのです。
自分の決定を自分で責任を取らなければいけませんが、その分、自由が待っています。
希望を捨てずに、状況が変わった時に、自分で行動できるように、生きる術を身につけておきたいものです。
毒親と宗教の関係を記事にまとめていますので、ぜひ併せてお読みください。
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